ロストロポーヴィチ氏死去2007/04/28 06:20

Dvořák: Cello Concerto In B Minor, Op. 104

Dvořák: Cello Concerto In B Minor, Op. 104
 Mstislav Rostropovich, Herbert Von Karajan; BPO

昨日の夜の公共放送のニュースで、先日亡くなった植木等氏のお別れの会の模様が流れていて、参列者を見ていると皆等しく歳をとりそして死んでゆくんだなぁと思っていたら、次のニュースでは現代を代表するロシアの名チェリスト:ロストロポーヴィチ死の死去が報じられました。

少し前からレコード店の棚には氏の80歳を記念するアルバムが並んでいたので、まだまだ元気なのかなと思っていたのに、突然の訃報に驚くとともに、奇しくも先日亡くなったエリツィン氏とともに、一つの時代の終わりを感じました。

旧ソ連時代の民主化運動や世界中で活躍されていた氏の演奏で印象に残っているのは、1995年1月の阪神・淡路大震災犠牲者追悼演奏会におけるJ. S. バッハの無伴奏チェロ組曲第5番サラバンドの独奏で、演奏終了後拍手ではなく黙祷で締めくくるものでした。

演奏会の模様がテレビ放映されていたのを録画したのですが、ビデオデッキを既に処分してしまって再生する事が出来ず残念です。

ニュースの後、追悼の意味で久しぶりに棚から写真のアルバムを取り出し聴きました。

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_ 千の天使がバスケットボールする - 2008/01/10 17:53

華やかなパーティ会場は、モスクワのメトロポール・ホテルのパーティ会場。
2005年5月15日。豪華な円卓を飾る初夏のすずらんを彩どる新緑がなんと瑞々しいことか。しかし今夜の主役は、金婚式を迎えた老夫婦。
世界的なチェロ奏者、その後指揮者としても活躍したムスティスラフ・ロストロポーヴィッチと、妻はソプラノ歌手のガリーナ・ヴィスネフスカヤ。
「だが、ふたりは旧姓を通している」
華やかな会場と夫婦を囲み談笑するそれ以上に豪華な欧州の王室の顔に、監督と脚本をかいたアレクサンドル・ソクーロフの抑制のきいた知的なナレーションが重なる。

モノクロの妻の若かりし頃のチャイコフスキーの「聞かないで」を熱唱する映像が流れる。そのドラマティックで重い声と歌唱力に観客は誰もが圧倒されるだろう。それから長い歳月をへてたっぷりと肥え、これ以上にないくらいの大きな宝石を身に付けた妻は、
「偉大な芸術家、20世紀に並ぶ者のない音楽家に。・・・スラヴァ、あなたに乾杯!」
老夫婦は熱い抱擁と口づけを交わす。偉大な業績と幸福な人生。スラヴァを知っている者は、彼のチェロを聴いた者は、彼を、彼の音楽を愛するだろう。
この夫婦のために世界中からかけつけたたくさんの賓客に、笑顔を見せる夫の首をおさえて更にもう一度キスをする妻。
思わず脳裏にうかんだのが「女帝」という単語だ。このほんの短い映像は、その後の本作品の成り立ちを示唆している。




本作品は、1部と2部の構成されているが、分けていることにはさして意味がない。
冒頭の金婚式のシーン、私財を投じて近代の音楽博物館を開く準備をしているモスクワでの彼らの住まいにカメラを移して、ソクーロフのロストロポーヴィッチへのインタビュー。そして妻へのインタビューと続き(ロストロポーヴィッチは床屋へ)、あいだに夫婦の写真やコラージュによる活動の紹介や妻が設立したオペラ学校での指導風景の映像が流れる。
マーラーを賞賛したショスタコービッチと彼を”マラリア”と嫌悪していたプロコフィエフ。スターリンの二時間前に亡くなって眠るそのプロコフィーエフと彼を見守るショスタコーヴィッチの陰鬱な顔が写った写真。どんどんと映像とソクーロフの語りにひきこまれていくと、夫がスペインのソフィア王妃からの贈り物である「手回しオルガン」に興じているシーンで1部が終わる。最後の1回だけレバーをまわしていなかったために音楽が終わらないことに気が付き、大慌てで手回しオルガンに戻るロストロポーヴィッチの様子が、観客の微笑を誘う。時間とお金をかけた展示されている凝った衣装をカメラが写し、その横のクラシックで優雅な椅子に座るこの館の女主人は、確かに夫とはタイプの異なる音楽家でもある。

後半は、再び金婚式のパーティシーンにうつる。そして夫婦の生い立ちが紹介された写真のコラージュでスクリーンが満たされていく。
1926年に生まれたヴィスネフスカヤは、こどもに無関心な両親から見捨てられ、祖母に育てられる。音楽の格別な教育をうける機会もなかったが、80歳の老教師にその才能を見出されて個人レッスンを受けて、コンクールに勝ち抜きボリショイ歌劇場の舞台にたった。音楽の専門教育を受けていない歌手は前代未聞だった。
ムスティスラフ・レオプルドヴィチ・ロストロポーヴィッチは、1927年にチェロ奏者とピアニストに間に生まれた。彼は、チョロケースを寝床(チェロケースの中に入っている赤ん坊時代の写真あり)に育つ。頑丈なケースにおさまるチェロは、彼自身だったのだろう。音楽家にとっての大切な楽器と同じように、両親の大いなる愛情に包まれ大切に育った。4歳で難解な曲を聴きわけた彼は、モスクワ音楽院に進学してその才能を発揮していく。
ウィーン歌劇場で小澤征爾とウィーンフィル、そして彼のために作曲したベンデレツキとともリハーサルがはじまる。初夏の陽気の劇場の外では、開演を楽しみにまつ質の高い聴衆たち。そしてシンコペーションのようにすすむモスクワで熱心に生徒に指導するヴィスネフスカヤの姿。世界的な名声と富をもたらす才能溢れる夫婦に、それゆえの栄光と一般的な家庭とへだたる家族が想像される。パーティにすみで、ひっそりとめだただく遠慮がちに座る地味な娘たちを、母は気遣い彼女たちを見つけてあたたかく抱擁する。この妻の決断のおかげで、夫はソ連を出国した。祖国を脱出して西側でえられたものは、果てしなく大きいだろう。けれども夫婦が、それとひきかえに失ったものも深いだろう。
世界的な名声をはくしながら、彼らは市民権を剥奪され、以後も亡命者として国籍はもたない。

ソクーロフがドキュメンタリー映画に着手したのは、ロストロポーヴィッチ自らが電話をかけて依頼したことに始まる。
彼以外の監督を全く考えていなかったロストロポーヴィッチは、私的な資料も提供して非常に協力的だった彼の映画製作にかける意図はなんだったのか。勿論、後世に自分の名声を残すことではない。監督のソクーロフがドキュメンタリー映画のベテランで作品の評価が高く、作風を気に入ったのであろうが、監督自身87年まで旧ソ連当局により数多くの作品の上映が禁じられていたことにも理由がありそうだ。国籍上ではロシアを離れても、彼らは将来のロシアという大国への想いは続いている。それは、サンクト・ペテルブルグに開館したショスタコーヴィッチ記念館でのオープニングでの挨拶ににじんでいる。
本作品の成功は、なんといっても登場人物の偉大さもさることながら、脚本とインタビューも担当した監督の力量も大きい。
音楽や、スラヴァになんら興味がなくても、その語りと映像に普遍性叙情性と政治に抑圧された人々の魂が静かに語るものは、この作品が後世まで名作として語りつながれることを感じる。そういう意味では、作品が登場人物のものというよりも監督のものになっている反面、ソクーロフを選択したチェリストの分野は異なるが同じ芸術を見る目の確かさが、製作する意図にかなっているとも言える。そしてこれまで、旺盛な活動を行いながらも、歌手としては不本意さを残しているガリーナ・ヴィスネフスカヤへの、夫から妻への金婚式を祝う最高の贈り物かもしれない。

華やかなパーティの席をともに祝す可憐なすずらんの花々は、出逢った当時、すでに夫がいたガリーナに結婚を申し込んだ時に贈った花だ。

*今年4月27日、世界中の多くのファンを魅了した巨星は80歳にして永眠された。
『人生の祭典』では、監督の「偉大な音楽、偉大な音楽家、偉大な聴衆。さよなら、ヨーロッパ。こんにちは、あたらしいヨーロッパ。おまえはどうなるのか。」
という言葉が印象に残る。20世紀という時代の終焉とよるべないあたらしい時代の到来、そしてよるべない音楽のあたらしい時代を感じる。
彼の音楽と生涯は、これからでもゆっくり軌跡をたどればよい。私の残された人生は、まだ長い。
今は、この『人生の祭典』を何度も鑑賞したい。